奈美の恋が終わった時
2001年10月24日奈美は彼と別れた。……‥原因は彼の信仰。
信仰と恋の問題は雑誌などでもあまり取り上げられることはない。宗教というものが絡んでいるために―般の雑誌では取り上げるのが難しいのかも知れない。
信教の自由という問題は確かに難しいことだが、結婚まで考えた交際の中では避けて通れない問題だし、信仰を持っている側がもっと信教の自由という事について考えて欲しいと思える場面に何度かぶつかった。
俺は信仰ということに関しては、無神論者でありながら神仏を拝むという典型的な日本人だ。俺の周りに信仰を持つものはたくさんいるし、俺自身、教会のミサ曲の作曲もするが、神の存在を信じてはいない。その立場で奈美の例を通じて信仰と恋ということについて考えてみたい。
奈美が彼と出会ったのは就職した会社の研修旅行だった。それまでは顔に見覚えがあるという程度の二人だったが、東京から高知までの船の旅で、親しくなる時間はたっぷりあった。波は穏やかで、陸の方には町の明かりが見え、満月が海を照らし……………………
ムードはたっぷりだった。
船のデッキでたまたま出会って、海を見ながら話しているうちに、彼が別れた彼女の話を始めた。それまで二年以上もつきあっていた彼女とつい最近別れたという。しかも、お互いに嫌いになったわけではなく、彼女の父親が頑強に反対したために別れたのだという。奈美は彼に同情し、話しているうちに彼に強く惹かれるものを感じ、キスまでしてしまう。どうしてそんなことをしたのか彼女自身もわからないという。
彼と一緒の研修は、本当に楽しかったという。その奈美の表情が変わってきたのは、つきあいはじめてから三ケ月ほどたったころからだった。
初めは「彼が約束を守らない」という話だった。「電話をする」と言ってもしてこなかったり、「明日会おう」と約束しても、直前になって「だめになった」と言ってくる。それも、自分と約束した後に、友達から飲みに誘われたりすると、そっちに行ってしまう。そんな形で待たされることが多くなり、奈美の不満が積もってきた。しかし、奈美の方も彼と会っているときには日頃不満に思っていることも言えなくなり、彼に合わせてしまう。そんなことが続いているうちに、彼がある宗教の信者だということがわかってきた。彼が奈美に会えないのは、仕事や友達との付き合いがあるだけではなく、その宗教の活動にかなりの時間をとられているためだった。
彼から話を聞いて、彼が自分の信仰を隠していたのではないということはわかった。しかし、奈美はやはり釈然としなかった。自分は彼にとっていったい何なのか。彼女は彼に自分の方をしっかりと見て欲しかった。自分が―番でいたかった。しかし、彼にとっては自分より信仰の方が大切なのではないか。
信仰を持つものにとって、信仰と恋とは全く別次元のことなのかも知れない。だが、信仰を持たない彼女にはそこのところが理解できなかった。
彼は奈美に信仰を強制したりはしなかった。しかし、彼自身が信仰を棄てるつもりもなかった。結婚というものがしだいに現実味を帯びてくるにしたがって、彼女の前には信仰の問題が大きくのし掛かってきた。彼の家庭は両親を含めてみんな同じ宗教の信者であり、彼女だけが無信仰でいることはできそうになかった。
一方で、彼女の両親の方はその宗教を嫌っていた。特に父親の反対は頑強だった。
そうした中で、二人はついに別れてしまった。
彼は「お前は自分よりも父親を取ったのだ」と言う。本当にそうだろうか。確かに彼女は信仰を強要されたことはなかった。しかし、家族全員が同一宗教を信仰し、日常的に宗教儀式が行なわれている中で、信仰を持っていないものがそれに巻き込まれずに生活できるだろうか。それは入信してしまうほうがよほど楽なのではないだろうか。一連の話の中で、彼が彼女のために信仰を棄てるという可能性については一度も話題にならなかった。信仰しているものが、その信仰を棄てるということが容易ではないのはもちろんだが、彼女が家族の絆を切って入信するということがそれと同じくらいたいへんなのだということを彼はどれほど理解していたろうか。彼女が父親を選んだというのなら、彼は彼女よりも信仰を選んだのだ。それは、同じ信仰を持つものにとっては誇らしいことなのかも知れないが、私からはとても思いやりに欠けた行為に思える。なぜ彼女と同じ視点に立って考えてはくれなかったのか。形ばかりではなく、本当の意味で彼が彼女の視点に理解を示してくれていたら、何らかの解決方があったのではないかと思う。
それがたとえ、彼女の入信という形になったとしても、また、たとえ結果が別れになったとしても、彼が彼女と同じ視点に立ってくれたということで彼女も救われたのではないか。
信仰の自由という問題のとき、なぜ信仰しない自由というのが問題にならないのだろう。強制しないから自由だという、そんな単純なものではない。不信心者の何気ない―言が、信仰しているものを傷つけることがあるように、信仰している側では何でもないことが、信仰しないものにとっては大きな負担になることがある。ことに結婚などということが絡んでくると、それはとても深刻な問題になってくる。そのとき、信仰している側が信仰していない側と同じ視点に立って欲しい。信仰という高い位置から下りようともせず、不信心者を見下ろして、ここまで上って来いというような態度では何も解決しない。こういった問題が、信仰を持たない側の妥協や犠牲でしか解決できないのだとしたら、それこそ信仰の自由というのは何だったのかということになってしまうのではないか。
信仰と恋の問題は雑誌などでもあまり取り上げられることはない。宗教というものが絡んでいるために―般の雑誌では取り上げるのが難しいのかも知れない。
信教の自由という問題は確かに難しいことだが、結婚まで考えた交際の中では避けて通れない問題だし、信仰を持っている側がもっと信教の自由という事について考えて欲しいと思える場面に何度かぶつかった。
俺は信仰ということに関しては、無神論者でありながら神仏を拝むという典型的な日本人だ。俺の周りに信仰を持つものはたくさんいるし、俺自身、教会のミサ曲の作曲もするが、神の存在を信じてはいない。その立場で奈美の例を通じて信仰と恋ということについて考えてみたい。
奈美が彼と出会ったのは就職した会社の研修旅行だった。それまでは顔に見覚えがあるという程度の二人だったが、東京から高知までの船の旅で、親しくなる時間はたっぷりあった。波は穏やかで、陸の方には町の明かりが見え、満月が海を照らし……………………
ムードはたっぷりだった。
船のデッキでたまたま出会って、海を見ながら話しているうちに、彼が別れた彼女の話を始めた。それまで二年以上もつきあっていた彼女とつい最近別れたという。しかも、お互いに嫌いになったわけではなく、彼女の父親が頑強に反対したために別れたのだという。奈美は彼に同情し、話しているうちに彼に強く惹かれるものを感じ、キスまでしてしまう。どうしてそんなことをしたのか彼女自身もわからないという。
彼と一緒の研修は、本当に楽しかったという。その奈美の表情が変わってきたのは、つきあいはじめてから三ケ月ほどたったころからだった。
初めは「彼が約束を守らない」という話だった。「電話をする」と言ってもしてこなかったり、「明日会おう」と約束しても、直前になって「だめになった」と言ってくる。それも、自分と約束した後に、友達から飲みに誘われたりすると、そっちに行ってしまう。そんな形で待たされることが多くなり、奈美の不満が積もってきた。しかし、奈美の方も彼と会っているときには日頃不満に思っていることも言えなくなり、彼に合わせてしまう。そんなことが続いているうちに、彼がある宗教の信者だということがわかってきた。彼が奈美に会えないのは、仕事や友達との付き合いがあるだけではなく、その宗教の活動にかなりの時間をとられているためだった。
彼から話を聞いて、彼が自分の信仰を隠していたのではないということはわかった。しかし、奈美はやはり釈然としなかった。自分は彼にとっていったい何なのか。彼女は彼に自分の方をしっかりと見て欲しかった。自分が―番でいたかった。しかし、彼にとっては自分より信仰の方が大切なのではないか。
信仰を持つものにとって、信仰と恋とは全く別次元のことなのかも知れない。だが、信仰を持たない彼女にはそこのところが理解できなかった。
彼は奈美に信仰を強制したりはしなかった。しかし、彼自身が信仰を棄てるつもりもなかった。結婚というものがしだいに現実味を帯びてくるにしたがって、彼女の前には信仰の問題が大きくのし掛かってきた。彼の家庭は両親を含めてみんな同じ宗教の信者であり、彼女だけが無信仰でいることはできそうになかった。
一方で、彼女の両親の方はその宗教を嫌っていた。特に父親の反対は頑強だった。
そうした中で、二人はついに別れてしまった。
彼は「お前は自分よりも父親を取ったのだ」と言う。本当にそうだろうか。確かに彼女は信仰を強要されたことはなかった。しかし、家族全員が同一宗教を信仰し、日常的に宗教儀式が行なわれている中で、信仰を持っていないものがそれに巻き込まれずに生活できるだろうか。それは入信してしまうほうがよほど楽なのではないだろうか。一連の話の中で、彼が彼女のために信仰を棄てるという可能性については一度も話題にならなかった。信仰しているものが、その信仰を棄てるということが容易ではないのはもちろんだが、彼女が家族の絆を切って入信するということがそれと同じくらいたいへんなのだということを彼はどれほど理解していたろうか。彼女が父親を選んだというのなら、彼は彼女よりも信仰を選んだのだ。それは、同じ信仰を持つものにとっては誇らしいことなのかも知れないが、私からはとても思いやりに欠けた行為に思える。なぜ彼女と同じ視点に立って考えてはくれなかったのか。形ばかりではなく、本当の意味で彼が彼女の視点に理解を示してくれていたら、何らかの解決方があったのではないかと思う。
それがたとえ、彼女の入信という形になったとしても、また、たとえ結果が別れになったとしても、彼が彼女と同じ視点に立ってくれたということで彼女も救われたのではないか。
信仰の自由という問題のとき、なぜ信仰しない自由というのが問題にならないのだろう。強制しないから自由だという、そんな単純なものではない。不信心者の何気ない―言が、信仰しているものを傷つけることがあるように、信仰している側では何でもないことが、信仰しないものにとっては大きな負担になることがある。ことに結婚などということが絡んでくると、それはとても深刻な問題になってくる。そのとき、信仰している側が信仰していない側と同じ視点に立って欲しい。信仰という高い位置から下りようともせず、不信心者を見下ろして、ここまで上って来いというような態度では何も解決しない。こういった問題が、信仰を持たない側の妥協や犠牲でしか解決できないのだとしたら、それこそ信仰の自由というのは何だったのかということになってしまうのではないか。
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